🌿【休職体験①】うつ病で休職を決めた瞬間

休職日記

私は、小学校教員として約20年勤めてきましたが、2025年3月31日をもって退職しました。

実は、退職の数年前から「休職」していた期間があります。

正確には、2022年1月からの3年と少し──。

ブログは、そんな私が「休職中に感じていたこと」「葛藤の中で気づいたこと」「その後の歩み」を綴っていく場でもあります。

ここにたどり着いたあなたが、ふと心を軽くなってくれたら嬉しいです。

 

暗闇を歩く心境──休職前のこと

近年、教員の多忙さや働き方について注目が集まるようになってきました。

しかし、現場に立つと

「どこまでが業務なのか」

「どこまで背負うべきなのか」

その境界はとても曖昧です。

どの仕事もそうかもしれませんが、経験を重ねるにつれて、任されることも多くなっていきます。

私もここ10年、それなりにキャリアを積み、教務主任と学級担任を兼ねていたこともありました。

このままいけば、いずれは管理職……という道も見えていたのですが、正直、そこには一切希望も興味も持てませんでした。

私はただ、ずっと子どもたちと近い場所で向き合っていたかったのです。

休職直前は2年生の担任をしており、校内のいくつかの校務分掌の主任も掛け持ちしていました。

さらに、校外の教科研究会では長の役も務めていました。

本当に、目まぐるしく毎日が過ぎていきました。

私には2人の子どもがいます。妻も同じく小学校教員で、どちらか早く仕事が終わる方が放課後児童会へ迎えに行く、そんな日々の繰り返しでした。

いつものルーティーンをこなしながら、突発的な出来事にも対応しなければならない。

そんな日々の中で、ストレスをうまく発散することもできず、家庭での会話も減っていたように思います。

そして気づけば、身体の感覚もどこか鈍くなり、頭の中はモヤモヤしていて──

なのに、まるで暗闇の中を一人で歩いているような感覚に包まれていました。

それでも、「自分が休んだら、子どもたちが困る」「同僚に迷惑がかかる」と、無理を重ねていた日々。

もともと患っていたメニエール病の症状も悪化し、ついに、妻の勧めで病院へ。

耳鼻科で診断書を書いてもらい、年末に一週間の病気休暇を取りました。

けれど──

三学期の始業式から数日後、私はもうベッドから起き上がることができませんでした。

 

心療内科を受診して

妻は仕事でしたので、実家の親に心療内科に連れて行ってもらいました。自分のことを話すことも、辿々しくなっていたので、時間をかけてゆっくりと、それまでの経緯と現状を話しました。

先生の口から出た言葉は・・・

「頑張って来られたのですね。なかなかお認めになれないかもしれませんが、典型的な鬱の症状ですよ。」

思わず涙が溢れそうになりました。何か救いの手が天から舞い降りたように感じました。それまでは、ひたすら自分を責めていました。

辛いことから「逃げた」と。

その頃は、休んでいてもどこか後ろめたく、学級の子どもたちや、任されていた仕事を手放すことへの罪悪感がありました。胸をえぐられるような思いをしながら、全てを手放す覚悟を持って、降りてきた手にすがりました。

年度末までの病気休暇の診断書が出ました。 

「休んでもいいんだ…よ…ね?」

 

病気休暇から休職へ

病休に入ってからは、職場との連絡はすべて妻に任せていました。
2月、教育委員会からの連絡が入り、「4月から復帰できるかどうか」確認されました。

とても復帰できる状態ではない。そう判断した私は、主治医の勧めで休職へと切り替える決断をしました。

必要な診断書は2通──心療内科のものと、教育委員会が指定する病院でのもの。
紹介された病院で、虚ろな意識のまま、長い待ち時間を過ごしながらも診断を受けました。
診断書を手にしたとき、手が震えながらでこう思いました。

「やっと……本当に、休んでもいいんだ」

2月のある土曜日、妻に付き添ってもらい職場へ。
私物の整理と、診断書の提出。
人に会うのがつらく、土曜日の訪問を選びましたが、妻がいてくれたことが何よりの支えでした。

帰りの車の中で、私は妻に、泣きながらこう言いました。

「ありがとう。これでもう休んでもいいんだよね……」


 

この経験を、今、言葉にするのは正直とても勇気がいります。
でも、もしあなたが同じような状況にいて、この文章に出会ってくれたのなら──
それだけで、書いた意味があると思っています。

 

 

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