2022年1月から小学校教員を休職しています。
もともと抱えていたメニエール病に加え、溜まりに溜まったストレスなどから鬱になり、仕事にいけなくなりました。
前回は、お笑い芸人のコンビ千鳥のテレビ番組「相席食堂」について紹介しました。
コンサートに誘われる
過日のこと。
実家の母親との電話のやりとり
「知り合いからコンサートのチケットをもらったのだけど、お父さん行けなくなったから、一緒に行かない?」
「誰のコンサート?」
「ウクライナ出身のナターシャ・グジーさん。」
「行ってみるよ。」
日本全国あちこちにチャリティコンサートでまわっておられ、8月にテレビ番組「情熱大陸」に出演されたみたいですね。
恥ずかしながら、コンサートに行くまで、私は全く知りませんでした。
ウクライナの歌姫
みなさんは、ナターシャ・グジーさんをご存知ですか?
民族楽器のバンドゥーラを弾きながら歌われました。
澄んだ、とてもきれいな歌声と音色。
バンドゥーラは見た目は琵琶に似ていて、音色はチェンバロンやギターに似ていました。
軽々と持っているように見えましたが、8キロもあるそうです。
ナターシャさんのバンドゥーラは63本も弦があるそうです。
ご存知でない方はぜひ、YouTubeのナターシャさんのチャンネルでご視聴ください。
ナターシャさんの語りと歌の90分のコンサートでした。
コンサートの企画は、ウクライナ市民、難民の援助を目的としたもので、47都道府県で行われるとのことでした。
コンサートの中の曲で、私が一番印象に残ったのは
「防人の詩」
でした。
作詞・作曲は、さだまさしさんで有名な曲ですね。
防人の詩 ナターシャ・グジー / Sakimori no Uta by Nataliya Gudziy
”万葉集に収められた防人歌のひとつから作詩された、人間の命の尊さや愛おしさを歌った曲である。死が終わりではなく、巡る生命の営みや再生への希望に共感して、ナターシャ・グジーが舞い散る桜の中で歌う。”(動画概要欄より)
1986年4月26日
ナターシャさんの言葉を借りると、
「生まれは葛飾柴又・・・ではなくて、・・・・ウクライナ、プリピャチ。」
1986年4月26日、ナターシャさんが6歳の時にチェルノブイリ原発の事故で、原発から3.5㎞の故郷のプリピャチで被曝されたとのことです。
翌日はそのことを知らされることなく、外で遊んでいたそうです。
「すぐ家に帰れるから、物を持たないで」
と避難したものの、結局そのまま家に戻ることはなかったそうです。
私はそのことを聞いて、自分自身の経験を思い出しました。
私は1986年当時、父親の仕事の関係で、家族と共にイギリスで過ごしていました。
日本で言う小学校2年生の7歳で、日本人学校ではなく現地の小学校通っていましたので、イギリスの小学校は5歳から11歳または13歳までなので、あちらでは小学校3年生でした。
チェルノブイリ原発事故を知ったのは、両親がニュースを見て、イギリスにも風に乗って放射性物質が飛んできている恐れがある、ということでした。
当時私はまだ7歳でしたので、原子力発電所とか放射性物質とかの意味があまり分からなかったです。
ただ、両親や周りの大人たちは大変心配していたそうです。
今はチェルノブイリ原発事故のことは様々な情報から知流ことができているので、いかに恐ろしいことがあったのかは、容易に分かります。
同じ時期に、同年代のナターシャさんのように子どもたちが、詳しいことは知らされずに、そして意味も分からずに住む家と土地を離れなければならなかったことと、見えない恐怖に知らず知らずに襲われていたことに、私は複雑な思いをしながら、ナターシャさんの語り、そして歌声を聴いていました。
「人間は忘れてしまったらまた繰り返すから」
ナターシャさんの言葉です。
今なおロシアとウクライナの戦争が続いています。
知り合いの方にもウクライナ出身の方が何人かおられて、ある方は、お父さんが病気のためにお母さんも看病があるために、2人ともまだ国外へ逃げることができていないそうです。
また、ある方のご家族が国営のウクライナ鉄道に勤務されていて、他国へ避難する人々を輸送し、医師や医療機器を乗せて戦傷者を救急搬送し、各国からの支援物資を運び、ロシア軍に破壊された鉄路をすぐに復旧する、まさに命懸けでウクライナの生命線を守っているのだそうです。
無関心ではいられないなと思います。
人を想う「優しさ」が世界に広まっていくことを願っています。
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